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「詩」というものがずっと何なのかわからなかった。

私は、ずっと「詩」というものが何なのかわからなかった。が、先日、ある出来事をきっかけに「詩」というものの本質が少しだけわかったような気がしたので、ここにそれをメモしておこうと思う。

 

 


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「詩」とは一体何なのか。

 

小説はストーリーがあるからわかりやすい。
論説は伝えたい意見があるからわかりやすい。

 

では、「詩」は何が目的なのか。

 

大抵の「詩」には明確な起承転結は無いし、何か主義主張があるわけでもなさそうだ。

 

そうなるとどんな切り口でこれを読んでいけばいいのかわからない。


「詩をどう楽しめばいいかわからん。」
これは私の中に昔から居座っていた悩みのひとつだった。

 

しかし、その悩みはある出来事を機に解消されていった。

 

 

 

それはとある友人と中華料理屋に行ったときのこと。


席に座って、メニューを見て料理を注文する。しばらくすると料理が運ばれてくる。そこまでは何もない。
しかし、彼は運ばれてきた料理(刀削麺か何か)を口にするや否や、「いや〜」と切り出し、そしてその料理の味をあらゆる言葉を尽くして自分に伝えてくるのだ(それもめっちゃ幸せそうに)。


彼の口から出る言葉は調味料や食材の名前のような具体的な単語から、その食べ物がもたらした気持ちの変化、果ては自分の過去の食体験談まで幅広く、彼はそれらの言葉を使ってその食体験を自分に伝えようとした。いわば「食レポ」なのだけれど、テレビで見る食レポよりも遥かに高解像度な表現だったし、自分も食べたような気分になった。(今振り返ると、彼の食レポは「詩的」だった。)

 

そこでふと、「味」を伝える、ということについて考えた。

 

料理の「味」というものはレシピによっておおよそ決まっているが、たとえ口頭でレシピを完璧に伝えても「味」という感覚は全く伝わってこない(クックパッドとか見てても、美味しそうか判断するのはレシピの中身より写真や味の感想だ)。
「感覚を引き起こすもの」について詳細に書くよりも、むしろ言葉によって「相手が過去に触れた感覚」を引き出せるような表現を使うことが「感覚の伝達」には必要なのだ、とそこで初めて気が付いたのである。

 

そして、中華料理屋での彼は、言葉を使い、自らが感じた感覚を高い解像度で相手に伝えることに長けていたのだ。

 


この「言葉による感覚の伝達ゲーム」はなかなか面白い!と思い、自分も何かぽっと内側に湧いて出た感覚を頑張って言葉にしてみることにした。

それが5月末にTwitterに投げた下の文章である。

 

 

で、この文章を書き上げてみたら、驚いたことにこれが今まで見てきた「詩」にめっちゃ似ているのである。感覚を文字起こししただけなのに。

そして実際に自分以外からも「詩的」とか「詩人にでもなるの?」とかの感想が飛んできて、ここではっとした。

 

「もしや、詩というのは、『言葉を媒介に、自分の感覚をできる限り高い解像度で伝達するゲーム』なんじゃないか」

 

これは目からウロコの発見だった。

 

人は未だ感覚というものを直接共有する手段を持っていない。同じケーキを食べても感じている甘さの度合いは違うかもしれないし、同じ夕焼けを見ていてもお互い違った色に見えているかもしれない。

 

自分の感覚を取り出して直接共有することができない以上、感覚の共有には何か「人と人の間を取り持つもの」、すなわち「媒体(media)」が必要になる。
そして、この媒体として言葉を用いたものが「詩」なのではないだろうか。

 

ということは、逆に感覚伝達の媒体に言葉以外のものを用いることもできる。
媒体を「視覚情報」にすれば「抽象画」だし、媒体を「音」にすれば「叙情音楽」のようなものになる。詩の意味を見つけたことで芸術全体の見え方が変わってきたのを感じた。

 


もちろん詩の役割は他にもあるだろうし、これが詩の唯一のあり方とも思わないけれども、この「感覚の伝達」という機能はかなり重要なウエイトを占めているのではないか。

 

 

というわけで、友人の食レポをきっかけに、「詩とはなにか」について考える機会を得たのであった。

とりあえず詩を鑑賞する視点をやっと手に入れたので、今まで通り過ぎてきた数々の詩たちに再び会いに行きたいと思う。