『君の名は。』を「言葉」の観点から考察する。
去年やや遅れて『君の名は。』を見て、衝撃を受けました。
何に衝撃だったかといえば、確かに絵も綺麗でストーリーも良かったんですが、何より「言葉」を大切にしていることがヒシヒシと感じられたのです。日本語が複雑に絡み合う織物の如き作品ですよ、これは。
というわけで、今日地上波で改めて見ながら、去年鑑賞して受けた衝撃を以下に(雑に)まとめました。
ただし以下に書いてあることは全部ワタシの憶測です。それでもよいならどうぞ。
あと、ネタバレ大いに含みます。念のため。
【この記事のアウトライン】
①『君の名は。』と「境界」……独特なドアの描写に始まる『君の名は。』のキーポイント。
②糸と「むすぶ」【赤い糸とそのメタファー】……組紐、彗星、神楽、へその緒、様々な形を取って現れる赤い糸。
③水と「むすぶ」【何故口噛み酒で入れ替わりが起こるのか】……水をすくい取る意味の「掬ぶ(むすぶ)」が三葉と瀧をつなぐ。
④奇数と「むすぶ」【偶数と「別れ」】……入れ替わりがあるのは三葉と一葉。そして死を暗示する四ツ谷。
①『君の名は。』と「境界」
『君の名は。』の物語前半には、部屋の引き戸や電車のドアが画面の奥に向かって開くという特徴的な場面切り替えが多用されています。なぜこんな描写が使われているのか。
ズバリ、この物語の主題の一つは「境界」なのです。
まず冒頭には「たそがれ時(かれたそ/かはたれ時)」という言葉が登場し、「昼でも夜でもない時間」「人の輪郭がぼやけて、彼が誰か分からなくなる時間」と説明されています。
これはまず、たそがれ時が「人の境界を曖昧にするもの」であるということで、物語の主要なテーマ、「入れ替わり(自分と他人の境界が曖昧になる)」を象徴しています。
また、たそがれ時は「昼と夜の境界」であり、最後の瀧くんと三葉との出会いは夕暮れ(「カタワレ時だ」)に起こっています。(「カタワレ」は、「かはたれ」の糸守の方言とされている。彗星の「片割れ」や二人がずっとバラバラだった様子を彷彿とさせます。)
舞台設定も、9月から10月にかかっており、これは、秋、つまり「夏と冬」の境界です(昼と夜の境界である夕方に対応)。
また入れ替わりは「過去と未来」の境界をつなぎ、「都市と地方」の境界をつなぐものとしても描かれているのです。
(余談ですが、これらの設定、実はある作品と非常に似てるんですね。芥川龍之介の『羅生門』です。この作品も「境界」を扱う作品なんですよ。
羅生門の書き出しはこうです。
「ある日の暮れ方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。」
舞台は洛中と洛外を隔てる羅生門(都市と地方の境界)、時間は夕暮れ(朝と夜の境界)。季節は蟋蟀が鳴くことから秋(夏と冬の境界)だとわかります。雨止みを待つ下人は仕事をクビにされ生死の狭間(生と死の境界)を彷徨い、生きるために決断をする。
ほら、設定めっちゃ似てませんか(雨の後に遭遇があるし(後述))。多少参考にしてるんじゃないかと疑っていますがそのへんは謎です。)
物語の後半には、扉が奥に閉じる描写が2回登場し、どちらも三葉の死の直前に出てくる。ドアが開く場面展開が「境界を繋ぐ(入れ替わり)」のを表すのに対して、閉じる場面展開は「境界を閉ざす(三葉の死)」のを表していると感じます。
(18.01.04追記)
作中には「境界」を結ぶものが様々な形を取って登場します。「扉」や「川(③で詳述)」もそのひとつなわけですが、他にも「橋(一方ともう一方を結ぶ)」「階段(上と下を結ぶ)」「電車(場所と場所を結ぶ)」が2人を「結ぶ」ものとして描かれていますね。「電車」は隕石落下の前日、東京に来た三葉が瀧くんと出会う場所。「歩道橋」と「階段」は終盤で2人が出会う場所です。敢えて境界を繋ぐ場所を選んで出会わせているのでしょう。(ラストシーンで三葉が階段の上、瀧くんが下に位置しているのは、時間のねじれを結んでいる、という感じもします。)
季節と時間帯についてもう一歩考察すると、「春」と「朝」は「結びの始まり」、「秋」と「夕暮れ」は「結びの終わり」、そして「冬」「夜」は「別れ」を表していると考えるとピタッとハマるんじゃないでしょうか。2人の入れ替わりは必ず朝に始まり、昼の間は続き、夜に終わります(寝てる間に想う相手のところへ行く、という構図が「夢の通い路」のオマージュなのは言わずもがな)。糸守で瀧くんと三葉が出会う場面は夕暮れですが、日が沈むと同時に2人は別れてしまいます。そして「秋」に2人は出会い、その秋が終わると入れ替わりも終わってしまう、というワケですね。そうしたら出会いの「春」はどこに行ってしまったのか、となりますが、これは時間がねじれて、出会いの始点である春が5年後に繋がったと考えると自然でしょうか。(桜の季節に東京で2人は再開します。出会いと別れがねじれて先に別れが訪れたことで、この再開はずっと続くんじゃないか、という感じもします。)
②糸と「むすぶ」【赤い糸とそのメタファー】
この物語のもうひとつ大事なキーワードは「むすぶ」で、劇中にも複数回「むすぶ(ムスビ)」というワードが出てきます。
「むすぶ」と言って真っ先に浮かぶのが「糸」で、物語の中でも「糸(あるいは紐)」、特に赤い糸や赤い紐が重要な役割を果たしています。
まず三葉が瀧くんに渡した赤い組紐が「赤い糸」であり「二人を結ぶもの」、そして赤い尾を引く彗星の片割れも「赤い糸」を象徴し、物語前半の神楽も「赤い糸」「赤い彗星」を表現しています。口噛み酒も赤い糸で封されてましたね。さらに物語後半に三葉の生涯を追憶するシーンがありますが、そこでもへその緒が赤い糸と結びつけて描かれていました。
三葉の祖母一葉も、「糸を繋げること」「人を繋げること」「時間が流れること」を「ムスビ」と表現していて、これらの「糸」の繋がりが主人公2人の繋がりを象徴していることを感じさせます。
(前半で三葉が中身の瀧くんが、奥寺先輩のスカートを縫ってあげるシーンがあります。あそこにも糸は登場しますが、ちゃんと赤じゃなくて緑の糸なんですね!瀧くんと奥寺先輩が結ばれないことを表しています。)
③水と「むすぶ」【何故口噛み酒で入れ替わりが起こるのか】
手元の漢字辞典を引くと、「むすぶ」という訓が与えられている漢字が2つあります。
ひとつは「結」、そしてもうひとつは「掬」です。
「掬」は「掬う(すくう)」という読みがより一般的ですが、「掬ぶ・掬う」はどちらも「容器を液体で満たす(「むすぶ」は特に両手を用いる場合に使う)」という意味、とあります。これは、三葉が口噛み酒を作る(口で噛んだ米を両手に吐き出す)場面や、瀧くんがその口噛み酒を容器に入れて口にする場面と見事に重なるではないですか。
一葉も「水でも、米でも、酒でも、なにかを体に入れる行いもまた、ムスビと言う」と言っており、これによって「口噛み酒によって2人がまた繋がる」ということを説明できます。
この場面以外にも水が「結び」の象徴としてたびたび登場しており、例えば宮水神社の御神体の周りの川は「あの世」と「この世」を結んでいます。また水で満たされた糸守の湖も「掬ぶ」を思わせます。
先程「赤い糸」の象徴と言った彗星は「ティアマト彗星」という名前がついていましたが、これの由来となったティアマトはメソポタミア文明の「海の女神」で、ここにも水が登場していますね。(このティアマトも海水と淡水の境界に住んでたとかなんとからしいですがこの辺は要調査。)
さらに2人の名前にもそれぞれ水が入っています(宮水の「水」、瀧の「氵」。)
水は流れるものでもあるので、「時の流れ」とも関係があるのでしょう。
(話がズレますが、少し名前の意味について考察してみます。瀧の「龍」は彗星を表してるんでしょうか。「立花」は花言葉が「追憶」なのがひっかかります。立花(橘)の花弁が5枚なのは「三葉」との対で後述の奇数と関係してるかもわかりません。)
(18.01.04追記)
『君の名は。』では、他にも「水」が「結び」の装置として様々な場面で使われいます。
物語後半、瀧くんが糸守に来て三葉を探していると突然雨が降り始めます。その後で2人は出会う。雨→出会いの構図は一回ではありません。
物語の終盤、場所は冬(12月)の喫茶店。結婚を前にしたテッシーとサヤが瀧くんの隣で会話している場面がありますが、この時の天気も雨なのです。この2人の登場と外で降る雨が、来る春に瀧くんと三葉が出会うことを予感させる役割を果たしていると思います。
(三葉が初めて瀧の中に入ったときにも水を映したカットが何度も入りました(蛇口をひねる→水の溜まった食器→トイレ)。入れ替わりの直後に涙を流したり、糸守の絵を描く瀧くんが汗を流しペットボトルの水を飲んだりと、水が絡むそれっぽい描写はたくさんありますね。)
④奇数と「むすぶ」【偶数と「別れ」】
『君の名は。』の中では、奇数と偶数がそれぞれ「結び」「別れ」の象徴として扱われています。
日本では偶数は2で割れるため「別れ(分かれ)」、奇数は割れないため「縁(結び)」に関係するとされますが、作中でもそれを反映した描写があるように感じます。
物語で入れ替わりの描写がある宮水家の人間は「一葉」と「三葉」ですが、どちらも奇数で「結び」を内包しています。
瀧くんが転んだ後の、三葉の生まれてからを追憶するような描写では、受精した胚(三葉)が2つから3つに分裂します。普通は倍々で4つに割れるはずですが、ここにも「3」という奇数へのこだわりが感じられます(形もちょうど三葉だし)。
また、瀧くんと奥寺先輩がデートの待ち合わせに選んだ場所は「四ツ谷」。「四」は偶数であり、「死」を暗示する数字です。そのデートの日に三葉の時間軸では隕石が落ち、三葉は死んでしまう。隕石が落ちる日の前日に三葉が瀧くんに会い、赤い組紐を渡し別れた駅も「四ツ谷」でした。
(「三葉の死」の前後と「主人公2人の出会い」以外のほぼ全ての場面で、主人公らが3人で行動しているのも気になります。)
(18.01.04追記)
「偶奇」を考えると、日付の設定にも必然性が見えてきます。先程「秋」も境界のひとつだと書きましたが、物語は秋の中でも「9月」に始まります。2人の出会いは奇数月(結び)に始まるんですね。そして、隕石の落下の日付が「10月4日」。偶数月であり、ここにも「4」が登場。別れと死を暗示します。無駄のない設定だと思いませんか!
ちなみに、終盤で5年後の奥寺先輩と瀧くんが合う場面、これも「10月4日」なんですね(場所も四ツ谷)。奥寺先輩は薬指にリングをはめ、別れを表現しています。
その後で場面は移って桜の舞う春に。「夏と冬の境界」の「秋」が「昼と夜の境界=夕暮れ」に対応すると考えると、「春」は「夜と昼の境界」、つまり「夜明け」に対応します。この描写が、まさに2人の出会いを予感させる仕組みになっているのですね。実際2人は朝に再開します。
とりあえず、考察/分析は以上です。全部合ってるとは言わずとも、いくらかは監督の意図したものだと考えて間違いないでしょう。
描写の見間違いとかあったら教えて下さい。